タイトルは適当です。2020年1月と2月に出した新作官能小説が、「アダルト小説・サブカルチャー の 売れ筋ランキング」有料Top100で連続して1位を獲りました。その辺りのことについて書き記しておこうと思います。


基本的に、僕の小説は流行を追いません。テーマも近親相姦とか女教師とかタイムトラベルとか兄嫁とか使い古されたものばかりです。流行をリサーチして、自分の書きたいものと摺り合わせて最適解を見出すといった作業は、ハナから放棄しています。


僕がなぜ官能小説を書いているのかと云うと、自分の読みたい小説が何処を探しても見当たらないからです。なので、自分が読みたい小説を自分で書いています。対象として頭に思い描いている読者は、自分ひとりだけです。


ノクターンノベルズなどのWeb小説を眺めると、自分には到底思いつかないような発想で書かれた小説が日間ランキング上位を占めています。エロ表現や文体よりも、シチュエーションのアイデアが重視されるようです。中には『トモハメ』のように、なかなか秀逸なアイデアだと呻るような作品も稀にありますが、自分にはピンとこないものが殆どです。例えば、事故物件に住んだら顔のない女の幽霊が出てきて毎夜セックスする話であるとか、壁に女の尻が生えていて、その尻は異次元で現実の女とリンクしていて、その尻を犯すと現実の女も絶頂に至る、或いは、全く理解できないのですが主人公がダンプに跳ねられて異世界転生して「ステータス!」と叫ぶと空中に相手の女の知力体力と云った能力が数値化されて現れるといったもの、これなどは大層人気があるようですが、僕にはサッパリ意味が解りません。


まず、顔のない女の幽霊、僕はセックスをしているときの女の喘ぐ表情と云うものは、大層重要なものと考えていて、肉体さえあれば顔はどうでもいい、という考えは承服しかねます。また、壁に尻が生えている、なんと即物的な発想でしょうか? これではオナホールと変わりありません。『目当ての女を攻略する』という醍醐味を味わえないじゃありませんか? 「ステータス!」と叫んで空中に数字が現れる、テレビゲームのやりすぎでしょうか? 自分は数字に欲情を覚えることはありません。


それから、よくあるチート能力というもの、これにも全く〝エロス〟を感じないのです。チート能力を使えば、どんな高嶺の花の女でも直ぐに股を開く、これはAVを見ながら自慰行為に耽るのと大差ないではありませんか?


マァ、そういった〝作品〟にも一定数の需要はあるのでしょう。ですが、其れ等は僕が読みたい官能小説ではありません。


おそらく、僕は化石のように頭が古く、前時代的なのでしょう。流行している其れ等の作品には、何ら興味を持てないので、自分の読みたい官能小説を自分で書く他にないのです。


チョイとばかり、SF的発想をすると、もしも自分のクローンが居て、自分の読みたい官能小説をクローンが書いてくれるとしたら、僕は小説を書くことを止めてしまうと思います。


僕が、どうにも承服し難いのは、現実には有り得ないほど貞操観念の低い女性の存在です。こう云ったヒロインの登場する作品が実に多い。そう、譬えばページ数の限られている成年コミックの短編ものであれば、直ぐに股を開いてくれるヒロインは重宝することでしょう。そう云った成年コミックから影響を受けているWeb小説も少なくない様です。


但し、ここが肝要なのですが、官能小説でそれと同じことをやろうとすると短編にしか成り得ません。元ネタが16頁とか24頁とかの成年コミックなのですから当たり前です。僕の場合、小説1本の文字数は10万字以上と決めています。短編ではないのです。それ故に、成年コミックとは全く異なる構成が求められます。


僕の小説は『現実に有り得そうで、有り得ないファンタジー』を描くことを基本としています。これでは観念的で解りにくいですね。具体例を挙げるとすれば、女家庭教師が自ら生徒を誘ってはいけないのです。女家庭教師と生徒は若い男女が密室に居る、というシチュエーションで有りながら、性的行為に及んではいけないというタブーがあります。ここが肝です。


不倫や近親相姦に於いても、同じ禁忌、タブー、或いは恥じらいがあります。禁忌を冒すスリル、そこにエロスが生じるのです。故に、禁忌の存在しない〝正しい〟夫婦生活を描いても、そこにエロスを見出すことは甚だ困難と云わざるを得ません。社会通念上認められた夫婦生活にはタブーが存在しないからです。


女家庭教師が生徒と関係を結ぶには、何らかのマクガフィン(動機)が必要です。ヒッチコック監督が云うところのマクガフィン、実にこれは何でも良いのです。辻褄合わせが出来さえすれば、荒唐無稽なものでも構いません。


マクガフィンを元に、禁忌を冒す、ここにエロスが生じます。性的関係を続けるにしても、常に小説の登場人物がタブーを意識し続けることで、エロスが持続し続けます。

禁忌、タブー、恥じらい、此れ等は昭和の官能小説から描かれてきた、実に古臭い、手垢のついた構造に過ぎません。


只、僕はそうしたタブーを冒すシチュエーションにエロスを感じ、そうした構造が魅力的に映るのです。


確かに時代の流行とは、かけ離れて居るでしょう。しかし、人間の基本構造が百年前と現在で大きく変わっているでしょうか? 食が改善されて身長は伸びました。医学が発展して、平均寿命は伸びました。ですが、遺伝子や肉体の基本構造に、百年で何らかの変化が生じたでしょうか? 百年で人間の内部構造は進化したでしょうか?


百年以上前に書かれた小説や戯曲であっても、現代人の心に響く作品があります(夏目漱石だったり、森鴎外であったり、シェイクスピアであったり、ドストエフスキーであったり)。21世紀の芥川賞作家に大きく影響を与えた作品が、70年以上前に書かれた太宰治の『人間失格』であったりします。

其れ等の事実から推察されることは、人間の心の琴線に触れる核となる部分は何ら変わらない、時代を超えて永続していくものである、という法則です。或いは、それは〝芸術〟という言葉に置き換えても良いのかもしれません。ベートーヴェンやモーツァルトやショパンの楽曲が現代人の心を打つのと同じ様に、小説にも音楽に似た、人の心を打つ普遍的なものがあるのだろうと思うのです。

それは、性的な創作物にも応用できて、普遍的なエロスの構造というものがあるのではないかと考えます。


僕の小説が売上1位である理由を探るとしたら、自分自身の個人的なエロスへの渇望が、集合的無意識に於いて共鳴を呼ぶからかもしれません。